冨カンと私part1(1989年12月〜90年9月末まで)


ジオと私に書いた通り、デビューは名古屋にある中部日本放送(CBC)の
「冨田和音株式会社」(とみたかずねかぶしきがいしゃ)である。
(冨カンという略称は「冨田」(和音)「カン」パニーからきています)

の番組はカンタンに説明すると「会社ごっこを番組にしたもの」である。メイン
パーソナリティー冨田和音アナウンサー(現在は別の部署にいらっしゃいます)
を「代表取締役社長」とし、ディレクターを「花の係長」、アシスタントのお姉さん
を「秘書」と呼んだ。いわゆる「役職制度」である。
一方、リスナーは葉書を読まれることで「株券」を発行され「株主」となる。別の
番組で言うところの「ポイント」と呼ばれるものと同じです。この株はコンピュータ
で管理され、一定の株数で「配当」と呼ばれるノベルティグッズが与えられました。
放送は21:00〜24:40で、23:30を境に前後半をわけていました。
前半は基本的に全曜日通しのコーナー(内容は異なるがタイトルは同じでした)
を設け、後半に各曜日の色を出すパーソナリティーのコーナーがありました。

組開始は1989年(平成元年)10月2日。時代背景としては千代の富士が七月
の名古屋場所で歴代2位の952勝をあげ、28度目の優勝を果たした頃・・・と
書いて何人の人がわかるか(^^;)
ちなみに日本シリーズは近鉄対巨人で巨人3連敗から奇跡の4連勝の年である。
・・・話がそれてしまった。私が聞き始めたのは放送開始から2ヶ月ほど後の12月
の木曜日でした。

初聞いた印象は「なんじゃこりゃ!!」でした。当時木曜日は社長・秘書に加え、
副社長である「伊集院光」が出演し後半に「伊集院光本部」というコーナーがあり、
名古屋のバカが結集していました。
(この番組では頻繁にバカという発言があったが、それは人道に外れたことをする
本当の馬鹿を指した言葉ではなく、人を楽しくする「愛すべきバカ」を指す言葉である)
それまでマジメちゃんだった私が、ガラッと変わることになるとはこの時思いもしなかった。
この日から塾から帰った私は24:40まで毎晩CBCをつけることになるのである。

かしながら、小学生の私にはハガキを書いてとか電話で業務連絡を・・・とまでは
勇気が無く(というよりそんな事考えもしなかった)、朝起きて学校行って裸足で学内
駆け巡り(私の卒業した七宝小は怪我や体調不良等の理由が無い限り裸足の生活が
義務付けられていた
のです。ですから、雪合戦をランニング・短パン・裸足という常識を
逸脱した格好でする子供も少なくなかった・・・勿論私もその一人)、塾へ行って、戻って
きたらラジオをつける・・・これの繰り返しでした。

学校も卒業し、いよいよ中学生(当時の写真を見ると完全に制服に着られている・・・)。
初めてのイベントが決行されるのです。大雨洪水警報発令の中5/5森林公園にて3000人
の観客を動員してのイベントでした。この時、記念株券(5株)を発行するということで、引換券
を大治町の夢屋書店へ取りに行ったっけ。それを持ってイベントに参加するだけでいきなり5
株の株主となってしまったのでした。(ですから私は自分の1株券を見ることはありませんでした)

・・・そんな強烈なイベントデビューにはもっと強烈な出会いがありました。
イベントも終了後、出演者を出口で待って写真やサインをいただいたり、差入れをしたりする
いわゆる「出待ち」ってのをしてる時に、初めて他のリスナーの方とお話をしました。
忘れもしません「ピンクのネグリジェ姿男性」だったのですから・・・。
(わかる人はわかりますね、あの方です。あえて名前は申しません)

のイベントも終わり、この番組的にも私的にも最初のイベントで
リスナー間の「横のつながり」を深めることが出来たことによって
この後のイベントがとても楽しいものになったことは言うまでもありません。同時に学校で
同級生に番組を紹介しまくって、当時七宝中では先生にもリスナーやっていることを知られて
いました。(10株で貰えるメモ帳を手に職員室へ行ったら「おっ、お前も株主か」と言われた)

翌月には名大祭のイベントとしてトミタ総研が出張、若輩者(当時12歳!無論声変わりしてない)
の私が発言した部分がオンエアされるのです。ですから、私のデビューはトミタ総研
というワケです。今の私を知る人にデビューの話をしても信じてもらえないのはどうして?(笑)
(トミタ総研:月曜後半のコーナー、政治や社会問題に鋭いメスを入れていた)

休みに入り宿題に追われながらも「遅くまで冨カン聞いても大丈夫!」という理由から元気
そのもの・・・と言いたかったのですが、夏休み前(しかも1学期末試験直前)、右腕にヒビが入り
三角巾で腕を吊って「2DAYS」に参加するのです。
このイベントは今もナゴヤの夏の名物として「名古屋夏祭り」として7月最終の土日にテレビ塔を
中心に、久屋大通公園で行われていますが、冨カンでも土日連続のイベントとして盛大に行われ
2日にわたって多くのゲスト、スタッフに会える大切なイベントでした。

さなカラダに小さな手帳、しかも腕吊って秘書の方や、社長のもとへサインを求めイベント会場
もちのき広場を右往左往してました。(羞恥心というものがありましたので無論仮装はしてません)
2DAYSの前に出張トミタ総研に参加していたので、2代目月曜秘書の山崎ルナさんには顔を
覚えてもらっていて、サインと一緒に「早くケガ治してね」と書いてもらって嬉しかったのを覚えて
います。この夏のイベントは夏休み中ということもあり、普段名古屋に出てこないリスナーの人達
との交流があるので、とても好きでした。ほんのり涼しくなってくる夕方からイベントがはじまり、
ライブやゲームでスカッとするという雰囲気も好きでした。
・・・ちなみに、夕方からのイベントなのに朝8時会場入り(笑)
ほぼ毎年舞台班の人と同時入りでしたね・・・。

の後も精力的にイベントに参加。第一回株主総会はCBCホール(第8スタジオ)でありました。
ゲストが辛島美登里、ナイトホークス、田中陽子・・・時代を感じますね(笑)
ナイトホークス、田中陽子といえば水曜後半のコーナー、DJ研修講座(通称D研)出身者の活躍は
冨カンリスナーとして嬉しいモノがありましたね。久野かおり、SHOW-YA、久宝留理子 、久松史奈、
ELLIS・・・ここに書き出したらキリがないので省略!今もカラオケに行って冨カンに関わりの深い
アーティストの曲をつい歌ってしまう自分(^^;)
リスナーも出演者も家族のようなあたたかさがあったなぁって今更ながら思ってしまうのでした。
そして、この株主総会は副社長伊集院光の退社という大イベント発表の場でもありました。
退社の理由の一つに、8月に放送した名古屋にゴジラが来たという設定で番組をやり通したから、
なんてウワサも・・・。今もゴジラ放送のテープ(23時以降だけですが)が我が家に残ってますが、
今聞いても十分に面白い放送でした。

参考データ☆その1
1989年〜90年頃よく聞いた番組

〜当時聞いていた番組〜1989年末から1990年頃
冨田和音株式会社・ラジオでフライデート・ぽっぷん王国・オールナイトニッポン

当時のオールナイトニッポン(ANN)は月曜のデーモン小暮、90年5月から月曜は大槻ケンヂ、
金曜日のウンナン、土曜日の松任谷由実、2部の川村かおりをよく聞いてました。
(CBCでは土曜のみ2部が聞けました)
時々火曜のとんねるず、木曜のビートたけしも聞いてたなぁ。私の記憶違いかも
しれませんが、当時水曜日は固定ではなく、いろんな人がANNを担当するいわゆる
「企画モノANN」だった気がします。(木根尚登が一応固定だったっけ?ご存知の方
教えて下さい。12才の記憶はいい加減なモノなんで・・・)

参考データ☆その2
リスナーの距離を近づけた「プレイベント」あれこれ

今のリスナーのつながりがより強くなったのはイベントの前にリスナーが自主的に行っていた
「プレイベント」にあったように思います。自己紹介したり、食事したりなんてごく普通なものから
伊勢市観光文化会館で年末行事の一つになるまで成長した「カウントダウンライブ」では夜の
イベントにも関わらず朝の9時前から集まるバカが行った「ダブルUNO(UNO2セット使用)
や正面玄関までの階段を利用した「だるまさんがころんだ」は今となっては伝説と化すプレ
イベントでしたね(だって50人近いリスナーが「だ〜るまさんが」って・・・元気あったなぁ)
ちなみに、前出のダブルUNOはその後のイベントでお手軽ゲームとして各地で目撃されること
になりますが、Draw Twoがみるみる重なり20枚近くカードをひかされる悲惨なリスナーを
見ると伊勢でその憂き目にあった自分の姿を重ねあわせてしまいます(笑)

冨カンと私part2へつづくのである